about Madoka Sato/プロフィール


Madoka Sato
is a Japanese writer
who has been living in Italy for many years.
かれこれ33年もイタリアに 住んでいる日本人ライター&作家です。





悩みを抱える子どもたちへ

 
まったく悩みのない子なんていませんよね。
 家庭が複雑な事情の子はとくに、自分の力ではどうしようもない悩みを抱えていることでしょう


 子どものころ、東京都内のあちこちや札幌など、何度も引っ越しました。
 お手伝いさんのいた裕福な幼年時代から、両親の別居、父が経営する会社の倒産、両親の長年の闘争のあとの正式な離婚までの間、いろいろなことがありました。病弱な兄は母のもとに残りましたが、丈夫だった私は札幌に再度赴任した父に試験的に預けられ、上手くいかなかったりなど、辛いこともたくさんありました。その後も母からは毎日のように父の悪口を聞いて育ちました。母の嫌いな父の血が自分にも流れていることや、父親似の顔であることから自己嫌悪に陥り、罪悪感をずっと抱えていました。

 そういう事情があったせいか、親にも誰にも素直に甘えることができず、かなり気難しい子でした。
「あれ買って」と言ったことは一度もないと思います。 欲しい玩具は自分でなんでも作っていました。
 それこそ、当時流行っていたボーリングゲームからリカちゃん人形の家に至るまで!
 この「自分でなんとかしちゃう」精神は、その後のプロダクトデザインへの道へとつながったのでしょう。作ることに喜びを見つけたことは、その後の自分の人生を大きく変えました。

  小学校、中学校時代はどちらかというとおとなしい優等生でしたが、高校に入学してから、その正反対になりました。偏見を持つ担任のA先生のパワハラに反抗し、荒れた自分の心を持て余し、登校拒否になり、
いつも眉間に皺を寄せて本を読んだり絵を描いたりしていました。今思えば、自分を確立するために必要な充電期間だったのだと思います。

 幸い、高校二年で担任になったN先生に救われました。以後は学校にもしっかり通い、自分の道を見つけることができました。N先生には今でも感謝していますし、著書を送って感想を頂いたりしています。

 ご両親や先生方に気づいて頂きたいのは、子どもたちは、大人の態度や言葉に非常に敏感だということです。感性の鈍くなった大人にとっては「たいしたことない」ような小さなエピソードから、子どもたちが少しづつ転落していくケースは、たくさんあるのです。子どもたちが転んだら、彼らが自分たちの力で立ち上がるように見守ってほしい。また、立ち上がれずに転がり落ちて行く子どもたちの手をしっかりと掴んでほしいのです。
 私がなんとか立ち直ることができたのは、母やN先生が手を掴んでくれたおかげと、自分自身が強くなれたからでしょう。

  やがて、夢だったイタリアのミラノのドムスアカデミーから奨学金を頂き、興味深くも困難な日々を過ごし、 卒業後はイタリア人の相棒とプロダクトデザインスタジオを設立し、医療機器から家具、内装に至るまで様々なデザインを手がけました。 80年代後半のミラノはエキサイティングでした。ルームメートはブラジル人。様々な人種の友人ができ、いろいろな言語や料理が入り混じった生活でした。でも日本とは違って、いろいろな手続きが複雑でめんどうなイタリアで、闘うような毎日でした。初期は食べて行けませんでしたが、仕送りなしでやっていたので、同時通訳から芸能人のアテンド、ビジネス文書の翻訳など、様々な事をしながら生活費を稼いで凌いでいました。今となっては、良い経験です。

 デザインの相棒と結婚し子どもが生まれ、健康上の理由から、空気と治安の悪いミラノを離れてトスカーナの田舎に引っ越しました。 夏は地中海側の松林の中にあるキャンプ場に大型テントを張って2週間を過ごすことが多かったのですが、 ある時大雨になり、泳げず、テントもたためず、しかたなくテントの中で丸2日を過ごしました。 サバイバルなキャンプ暮らしですから、ネットもテレビもありません。

 退屈していた娘のために、何十ものお話しを作りました。 そのひとつが、後にニッサン童話と絵本のグランプリに送った『水色の足ひれ』のベースとなった物語です。
 私のまわりには、身体に障害のある人が何人かいます。残念ながら世の中には、身体能力や肌の色、服装などから人を差別する心のせまい人もいます。でもまだ心を汚されていない子どもたちなら、きっと誰とでも自然に接することができると願い、この物語を書きました。

 子どもたちには、希望を持ってほしいです。強く、優しくなってほしいです。
 子どものころに悲しいこと、苦しいことを体験すれば体験するほど、私たちはすこしづつ抵抗力をつけ、強く、優しくなれると思っています。そうは言っても、受けた傷が深く、高い壁を前にすると、だれだって途方に暮れます。
 それでも私たちは強くなって、壁を乗り越えなければなりません。もし乗り越えられない壁ならば、道を変えたり時が来るのを待ったりと、あらゆる方法を模索し、とにかく生
き延びてください。人の傷が分かるようになり、自分の傷を癒す方法も覚え、強くなっていきたいです。日々の暮らしのなかで小さな喜びや楽しみを見つけ、広く大きな心を持ちたいと思います。それは大人になっても同じことです。
  
 子ども時代、夢中になって読んだ本にずいぶん救われました。本の中で冒険をし、泣き、笑い、世界中を旅しました。 同様に、私の書いた本が読者の心をほんの少しでも軽くすることができたら、これほどうれしいことはありません。

イタリア トスカーナにて 佐藤まどか


ちょっと内緒のプロフィール

私は生まれる時からして、へそ曲がりだったようです。
1月の東京。予定日を過ぎても生まれる気配がなく、母は一大決心をしました。
当時札幌に単身赴任していた父のもとに、兄とお手伝いさんを引き連れて、移動したのです。
(その頃は裕福だったのですね)
案の定、札幌に着いたら寒さのショックか、私がすぐに生まれたとのこと。
ですが、本籍地はずっと東京です。
本当の生地は札幌、と書きたいけれど、書類上そうはいきません。
イタリアの永住労働許可証やアイデンティティカードも全て、東京生まれとなっています。
日本のパスポートの記載事項と合っていないとダメなのだそうです。まあそれはそうでしょうね。
海外では、本籍地=出生地にほかなりませんので。
毎回本を出すたびに、プロフィールで説明したいのですが、ややこしいので結局却下。
まあ出身地なんて、どうでもいいんです。
人間、大事なのはどういう人でありたいか、という事だけかと思います。
黄色人種でも、白人でも、黒人でも、関係ない。ましてや国だの県だの、
身体的なことなど、自分で変えられないことは、どうでもいいと思っています。
ただ、このHPを見てくださっているということは、
私の本を読んでくださっているという事だろうと思うので、お知らせておこうと思いました。
寒い寒い北の国に、なんとなく愛着が湧くのも、そんな背景があるからかもしれません。
ちなみに、今住んでいるトスカーナ州シエナ県も、緯度で行くと北海道の富良野東町とほぼ同じです。
雪は殆ど降りませし、南国のイメージがあるでしょうが、富良野や美栄と景色が似ています。
札幌は緯度43°ジャストぐらいで、若干今いる村より南ですが、近いです。
最初と最後(また引っ越すかもしれませんが)が同じ緯度なんて、なんだか運命を感じます。



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